ギャラリー(カレンダー) -Gallery-
弊社2024年カレンダー掲載の「CVESmap(立体斜度図)で見る世界の自然遺産」について、 解説を毎月掲載します。
*過去のカレンダー:2023年「世界の自然遺産」の解説はこちら
カレンダー付属の赤青メガネ赤青メガネを通してご覧ください。
赤青メガネは5枚セット550円(税込)で販売しております。
CVESmapの情報は、パンフレットや当社WEBサイトをご覧ください。
・パンフレット:CVESmap(赤青立体地図)のご紹介(PDF)
・ショップ:手軽にご利用頂ける製品のご紹介
・データ作成:受託業務のご紹介
・ギャラリー:カレンダー以外の画像例
4月 第四次川中島の戦い
川中島の戦いは、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(この頃は政虎と名乗っています)
が川中島を中心に複数回の戦を行ったもので、主な戦の計5回のうち、
最も大激戦となったのが第四次川中島の戦い(1561年)です。
上杉謙信(図中の黄色)は越後方面から南進、武田信玄は甲斐方面から北進しますが、
謙信は八幡原南側の妻女山に、信玄は北側(西側)の茶臼山に布陣して膠着状態となりました。
信玄は膠着状態を打開するため、海津城に入るとともに別動隊で妻女山を攻撃し、
上杉軍を八幡原に追いやり、本隊が待ち伏せ攻撃するというキツツキ戦法に出ます。
しかし、謙信はこれを察知し、上杉軍は夜陰ひそかに妻女山をくだり八幡原に布陣します
。武田軍は早朝の霧がはれて上杉軍が眼前に布陣していることに気づき、
鶴翼の陣で急遽応戦することになります。この戦の勝敗は優劣つけがたいですが、
上杉謙信が武田信玄本陣に切り込み、床几にすわる信玄に三度切り付け、
信玄はこれを軍配で受けたという有名な話が残っています。
戦場となった八幡原は扇状地ですが、千曲川沿いには自然堤防や旧河道など興味深い地形がみられます。
激戦の様子を思い浮かべながら散策してみたい古戦場です。
立体視設定:1:5万 表示時、垂直倍率10、紙面標高350m、視距離60cm
3月 桶狭間の戦い
桶狭間の戦い(1560年)は、小大名であった織田信長が上洛途中の今川勢を奇襲にて打ち破り、
今川義元の首を取った戦で、織田信長覇業のきっかけとなった戦です。
桶狭間は小丘陵地と低地が入り乱れ、軍勢を隠しながら進軍する好地であったようです。
織田信長は、今川軍(図中の黄色)が織田方の鷲津・丸根砦に攻めかかったのを機に行動を開始し、
清州城から今川本隊が駐留する桶狭間を目指しました。
現在の戦場跡周辺は住宅地となっていますが、それでも小丘陵地と低地が入り組んだ当時の名残があり、
見通しの効かない地域だったのだろうということは容易に想像できます。
信長は進撃ルートまで事前に考えていたのでしょうか。
立体視設定:1:2.5万 表示時、垂直倍率10、紙面標高0m、視距離60cm
2月 壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦い(1185年)は、源平合戦の最後の戦いで平家滅亡に至った海戦です。
壇ノ浦とは現在の関門海峡付近のことで、潮の流れが急なことで有名です。
開戦当初の潮流は平家軍(図中の濃い緑)に味方していましたが、合戦の途中で潮目が変わり、
源氏軍の反転攻勢につながっています。
この合戦では、源義経の八艘飛びの逸話が残されています。私が関門海峡を訪れた際に、
往来する船の速度が潮流によって全く異なることに驚きました。
自然を味方につけた方が勝つということはどの戦いにも言えることですが、
この合戦はその典型と言えそうですね。
立体視設定:1:12.5万 表示時、垂直倍率10、紙面標高0m、視距離60cm
1月 一ノ谷の戦い
一ノ谷の戦い(1184年)は、源(木曾)義仲に敗れた平家が、
九州に逃れたのち義仲の勢力衰退や平家の勢力回復とともに摂津国(兵庫県)まで進出し、
強固な防御陣を敷いて源氏軍を待ち構え、
義仲軍を破った鎌倉軍と激突した合戦です(図中の濃い緑が平家軍)。
鎌倉軍には源義経が加わっており、本軍を範頼が、搦手軍を義経が率いて一ノ谷に向かっています。
義経は迂回路(北側の山地)を進み、鵯越(ひよどりごえ)を行ってわずか70騎で平家軍を急襲し
(図中の南西端)、平家軍をかく乱・敗走に至らしめたといわれています。
現代の海岸線は埋め立てが進んでいますが、
段丘の広がりから推察される当時の平野はかなり狭かったと思われます。
平家軍は鉄壁だと思い込んだのでしょうが、
義経の奇襲は平家の想像をはるかに超えていたということでしょうね。
立体視設定:1:16万 表示時、垂直倍率10、紙面標高0m、視距離60cm